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たましまの歴史・伝説・民話

千年丘尼(せんねんびくに)

亀山がまだ海だった頃、秋祭りの日、人魚が村人の膳に。しかし誰一人箸をつけず、主人は「土産に」と包んで皆に渡しま すが、気味悪がって海に捨ててしまいました。ところがその包みを持って帰ってしまった男がいて、その娘が人魚を食べてしまいます。それから不思議なことに 彼女は、何年経っても若い姿のまま。夫も子も亡くし、坊山でひっそり暮らしていましたが、ある日、比丘尼になり、庵を金光町占見に移しました。彼女は諸国 巡りの旅に出て、何百年かの後、若狭で亡くなったそうですが、出発のとき立てた杖は、見事な木に育ちました。それが亀山にあった柏槇の木とも、また占見の 津熊の森になったとも伝えられています。

 

源平水島合戦(げんぺいみずしまかっせん)

寿永2年(1183)旧暦の10月1日、都を捨てた平家軍と、平家討伐の名目で都を追われた木曽義仲軍が、水島で戦を 繰り広げることになりました。源氏軍はこの日、大将に矢田義清・侍大将に海野行広を頭に七千余騎が今日の玉島乙島に馳せ参じ、平家方は平知盛(とももり) を大将に、副将軍に平教経(のりつね)以下の軍勢が柏島に陣を構え、互いににらみ合う中、ついに平家の小舟に源氏方が挑発され、五百余りの舟を仕立てて海 に漕ぎ出る。迎える平家の舟は千隻余。舟をつなぎ板を渡して、源氏方の船頭めがけて矢を射て次々に仕留める作戦。舵とりを失い、折からの強風に煽られる 船。右往左往する源氏の軍勢は次々に海に沈んでいきました。加えてこの日は太陽がすっぽり隠れる大きな日食、前もってこれを知っていた平家事は、さらに天 の助けと攻め続け、この結果、源氏軍は大敗を喫す。こうして、水島の合戦は、平家唯一の勝ち戦として後世に語り継がれることになったのです。玉島商工会議 所女性会では、平成13年度が創立20周年を迎えることから、「玉島の名物料理づくり」に取り組まれ、源平合戦の故事をもとに「源平そぼろ弁当」が創作さ れました。

 

デベソ島

勇崎の沖に浮かぶ、こんもりとした島。これは、雷が裸で遊んでいる子供のおヘソをたくさん取って、空で暴れていたとき、ついその中のひとつをポトリと海に落として出来た島だと伝えられています。

 

火を消す和尚(円通寺金仏像)

昔、円通寺の和尚が、「金仏が焼けている」と小僧たちを起こし、水をかけさせた。いくら水をかけても、金仏はシュン シュンと湯気を上げるばかり。しばらくして、その火はおさまったものの、数日が過ぎたある日のこと、江戸から見知らぬ男がやってきて、その節はどうもと頭 を下げる。聞けば「数日前江戸で大火事があり、そのとき円通寺の提灯がかけられ、消火を助けてくれた」というのだ。和尚はしばらく考えてから、男を金仏様 の前に案内したとか。以来、この金仏様は「江戸の大火を救った金仏様」「火伏せの仏様」と呼ばれています。

 

お玉さん

寛文10年(1670)の頃、備中松山藩主水谷勝家による新田の干拓が、今一息という時。潮の流れの速い難工事にぶつ かりました。人々は「これは海神のたたり。誰か人柱を」と言い合うようになりました。そのとき、自ら進んで名乗り出た「お玉」という18才の美しい娘がい ました。最後の難関=阿弥陀水門の底に沈められたお玉さんのお陰で工事も無事終了し、玉島阿賀崎新田が完成したと言われています。現在、昭和水門東端にあ る小さな供養塔がお玉さんを祀ったものと言われています。

 

玉島事変

大政奉還の翌年、明治元年(1868)鳥羽伏見の戦いで幕府軍が破れました。筆頭老中を努めていた松山藩主・板倉勝静 (かつきよ)の命で、当時大阪にいた熊田恰は藩士を連れて玉島に帰り、松山を目指しましたが、松山藩の大勢が大きく変わっていて、恰の一隊は朝敵として玉 島の柚木邸に足止めにされました。恰は官軍に恭順の意を示しましたが、受け入れられず、備前岡山の池田藩等の官軍に包囲され、玉島の街は戦火の危機にさら されました。熊田恰は川田甕江に嘆願書の草案を作らせ、柚木邸の一室で切腹して恭順を示しました。恰は自らの命と引換えに隊士百数名の命と、玉島の町を戦 火から守ったのです。昭和63年に直木賞作家、早乙女貢(さおとめみつぐ)氏が柚木邸に恰を取材に来られ、中央公論で紹介されました。

 

龍宮女房(りゅうぐうにょうぼう)

昔、乙島に三吉という若者がいました。ある日、三吉のもとに美しい女がやって来て「私は龍宮から来ました。あなたのお 嫁さんにしてください」という。三吉は喜んで娘を妻にし、二人で楽しい日々を送っていました。ところが噂を聞きつけた殿様が、娘を妾にしようと、いろいろ 難題をふきかけてきました。しかし、娘の機転と龍宮の助けで、見事それを打ち破り、二人は末長く幸せに暮らしました。

 

柄杓島(ひしゃくじま)

江戸時代のある夏の夜のこと。一艘の船が水島灘にさしかかりました。船に寄せる波の間に「杓貸せー」と人の呻き声が聞 こえます。この辺りは水島の合戦で、長い年月を経た今も源氏の兵士たちの魂が成仏出来ずに彷徨っていると言われていました。その声は次第に数を増し、船の 速度は落ち、ついにストップ。船頭は亡霊のなせる業と思い、水夫に命じて真水を汲んだ柄杓を海に投げ込ませると、暗い海から白い腕がヌーッと出て、杓をつ かみました。それを合図に、無数の腕が波間から船を取り囲むように現れると、どの手も柄杓を握り、ザーザーと海水を船に流し込み、ついに船は沈没してしま いました。玉島を通る船は、この船幽霊に底の抜けた柄杓を与えよとの教訓が語り継がれ、この辺りの島を「大柄杓島」「小柄杓島」と呼ぶようになりました。

 

弁慶岩(べんけいいわ)

沙美恵池の北にある山に「弁慶岩」と呼ばれる岩があります。弁慶がこの岩を足場にして、一気に四国へ飛び渡ったといわれ、岩には、直径50cmの足跡がくっきり残っているとか。

 

黒姫伝説(くろひめでんせつ)

黒媛は吉備の国に住むたいそう美しい娘。やがて仁徳天皇の寵愛を受けるようになりました。しかし、嫉妬深い皇后の仕打 ちに耐えかねて、吉備の国へ。天皇は「沖辺には小船連らく黒崎のまさづこ吾妹国へ下らす」と船出を悲しまれました。黒媛への想いを断ち切れない天皇は、皇 后に偽って黒崎へ。小高い丘の中腹に御殿を建て、楽しい日々を過ごす二人。しかし、いよいよ別れの日、黒媛は「倭べに西吹きあげて雲はなれ退き居りとも我 忘れめや」さらに「大和べに行くは誰が夫隠水の下はよはへつつ行くは誰が夫」と嘆きます。黒媛は屋敷を少し上(黒瀬神社)へ移し、天皇の歌「山県に蒔ける 青菜も吉備人と共にし摘めば楽しくもあるか」を思いながら暮らしたということです。

 

鬼の小便岩

この岩は、新倉敷駅の北西、天神山の近く、野呂の部落へ行く途中の道端にあります。昔、この辺りに鬼が住みついて、野 呂や爪崎辺りの部落に出没しては、人をおどして酒や食べ物を盗み、それを持ちよっては、この岩の上で酒宴を開いたとか。畳半分ほどの黒い色をした岩の真ん 中込りから下のほうに向かって、大小2本の白い線があり、「大鬼と小鬼の小便の跡」だといわれています。

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